奉納という言葉が適切か、わかりませんが、私の表現が向かう先は
自然との対話と感謝、災害の鎮静を願うものというのが
一番しっくりくるというと、なかなか理解されないこともあります。

それでいいのです。

誰も観なくなっても、表現をする意味を自分が納得できさえすれば。
私が作品を生み、表現する喜びを、たとえまた世界的な危機に陥った時にも
見失わないでいられるように、アーティストとして生きることにしました。

人に観てもらい、評価をしてもらわないと、表現する喜びを感じられないことを、否定するつもりはありません。
けれどもまた全てがストップする日は、今の人間の生活をガラリと変えられない限り、やってきます。
仕事や劇場を失うことがあっても私は表現する喜びを失わないでいるために、どうすれば良いか、
自然との対話のなかで考え、そしてもうストップしなくてよい方法も見つけました。

そして、思い込みを捨てることにしたのです。

最後に、木のコミュニケーションと生態について、突き止めた生態学者と
感染症が流行したときに、科学的な知見から予測し、策を講じる保健師とが
同じことを自身のカンファレンスで引用していたので、ここにも残しておきます。

最後の木が枯れ、川が汚染され、最後の魚が釣り上げられてはじめて、人間はお金を食べることができないことに気がつくものだ」Cree Indian のことわざ
参照